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感じた事や楽しかった事を書いていきます。

今年の抱負

 私は、僕は、俺は、アタシは。生活する中で現れる様々な自分。仕事をしている自分、一人でいるときの自分、地元の友達の前での自分、親しい人の前での自分。全てが自分で同時にどれもが自分でない様な感覚に襲われる事がある。そんな時、自分を自分として認識せず、他人だと思って嫌な部分をあげつらって攻撃して、あとからそれが自分自身だと気が付き酷く傷つく事がある。自分がろくでなしだと自分自身によって突き付けられるのは何よりも孤独だ。だから、傷ついた上に寂しくなる。私の場合、自己嫌悪の原因は自分に対してどこか他人行儀である事だ。自分を自分自身だと思いたくないから自分を攻撃する。いや、自己嫌悪するから自分を自分自身だと思いたくないのか?鶏が先か卵が先かはわからない。こうやって自分を分析するのだって自分を観察対象として自分の中から疎外している事の何よりの証拠だ。こんな事をしている内は正体のわからない孤独感を拭い去れないだろう。孤独を生み出すのはいつだって自分だ。

 

 ここ数年は何を考える間もないほど慌ただしく、人に囲まれながら過ごした。楽しかった。それが終わって一息ついた。ここ数年の仕事や恋人たち、友人たちは私の中に数え切れない程の思い出や影響を与えてくれた(本当にありがとう。こういうのを宝物と言うんだと思う)。しかし同時に一つの疑問が生まれた。

「お前の人生はなんだ?」

 恋愛では全てを出し切って私の持てる最善を尽くした。仕事にも全力だった。趣味だって全力でやった。全てを持てる限りの力で、これでもかと言わんばかりにやり尽くして分かったことがある。全力の中では自分がさらけ出される事を知った。全力であるという事は等身大で居る事だと知った。クリアな世界に飛び込むと極彩色の喜びと深紅の痛みを味わう事になると知った。知れば知るほど見えてくるのが自分という人間の底である。

 それは能力の限界だとか、キャパシティとか、性格だとか性質だとか、そういう話ではない。それは欲望に近く、根源的なもので、己と呼ぶに相応しいものだ。それは己が己に課した存在意義の様な、原罪の様な、母親の子宮よりも父親の精巣よりももっと以前から有る不安のようなものだ。そういった根底みたいなものの尻尾が見えてきたのである。

 そうなってくると、段々と自分が自分でいることが恐ろしくなってくる。私は不安によって生かされている。けれども、そんな自分は嫌だ。認められない。そうして自分に対して他人行儀になって攻撃。結果、自己嫌悪をする。冒頭の様になる。充実してようやく分かった。(鶏が先か卵が先かはたった今わかった)

 生活が充実していてもこの種の生命の根底に流れている様な不安は消えない。私は不安になる為に生きているわけではない。充実しても消えない不安を前にして「では、お前の人生はなんだ?」と、いよいよ何故生きているかすら分からなくなってしまうのである。

 愛し合っている間は消える不安、楽しんでいる間は消える不安。この根源的な、しかしながら正体不明の不安は充実している間は消えるのである。アランの幸福論でも「何かをし続けろ、それが幸福だ(私なりの解釈なので読んでみてね)」みたいなことが書いてあった。充実させ続ければワークアラウンドで解決する問題なのだろう。しかし、現実問題、人間は充実させ続けるのに必要な要素をいつ失うか分からないのである。声を失うかもしれない。光を失うかもしれない。音を失うかもしれない。考えても仕方のないもしもを考えるのは正しく愚か者のする事であるが、考えずにはいられない。未来でも過去でもなく今を観ろとお釈迦様も言ってるけれど、私は

 

♡中略♡

 

 私は自分でいる事に執着しすぎている。執着こそが私で、しかしそれを私と呼ぶにはあまりにも私ではなさすぎる。しかし、それが自分の底だ。不安こそが私で、執着こそが私だ。やはり、それを私と呼ぶのは難しい。

 今年からは執着と決別する準備を始めようと思う。良い人生は死に方で決まるでしょ。笑って寿命で死にたいもの。私は。

 

私って?