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雑記 2022.02.07

 素晴らしい世の中だ。二十四時間コンビニは空いているし、携帯電話を数回タップすれば飯が配達される。家の中を快適な温度に保つことができ、インターネットの向こうに時間を問わず人を感じることだってできる。水を汲みに行く必要もなければ、薪の管理だって不要だ。街にはゴミが散乱していないし、駅に行き交う人をまかなえる分だけの食料はどこでも調達できる。
 現代社会に生きていれば意識もしない当たり前の話だが、考えれば考えるほど、感じれば感じるほど、私の生活は人の(そしてそれは主に他人の)仕事で成り立っている。
 他の人が居なくなったら私の生活は破綻する。交通が止まったら飯はなく、発電が止まれば寒さに震え、下水が止まれば排泄さえままならない状態になる。
 私は文字通り他人に生かされている。私以外の人もまた、他人に生かされている。ライフラインを使う限り、現代人が孤独への愛を語ることなど究極的には不可能だ。
 生きるためには孤独を恐れるべきだろう。それが懸命な態度というものだと、今なら腹の底からわかる気がする。

 私の生活のためにたくさんの人が働いている。そして、私もたくさんの人の生活のために働いている。コロナ禍でどれだけ人とのつながりが希薄になったと言われようと、無意識に(あるいは意識的に)人間の営みに絡め取られて生かされる。それほど、人とのつながりは強力なものだと感じる。
 人が抱く孤独への嫌悪感や恐怖の根本的な原因が生存欲求に依るものだとしたら、それらを解消するためには働くことが最も手っ取り早い。人から施しを受け、人に還元する。社会から与えられて、社会へ与える。この循環の中に居ることで、流れから外れることはない、野垂れ死ぬことはないと錯覚ができる。社会へ与えている間は、循環の中にあって、その循環から外れる時は社会自体が死んだ時だと思いこむ。
 現実にはそうではない。社会というシステムは、地球に資源があってはじめて成り立っている。人と資源と人が起こす循環が全て尽きれば社会はやがて死ぬ。
 孤独を感じる前に自らの生存欲求に耳を傾けることで、なにかがわかるような気がしている。まだ明確にはわかっていない。

 私は(比喩ではなく)与えたり与えられたりして生きている。二十四時間のコンビニも、昼夜動き続ける工場の製品も、馬車馬のようにこき使われている宅配サービスだって使ったことがある。最近、これらは循環ではなく、循環の流れを淀ませる搾取だろうと確信している。これは社会を殺す行動だ。人と人との関わりである社会というものを明瞭に感じ取れてはいないけれど、この過剰な便利さに相乗りすることが、社会を殺しているのだと直感が告げている。私達は流れを生み出すために漕ぎ続けなければならないが、他人が漕いでいる力をそれ以上の力でせき止めてはまるで意味がない。バランスが崩れたら流れが止まる。全員が流れを止めなければ、ひとりひとりが楽な力で漕いだって流れは止まらないはずだ。誰か(あるいは、私)がせき止めているからがむしゃらに漕ぐ人が必要になってしまうのではないか。そうやってせき止めた分を更にがむしゃらになって漕いで首を締めいているような気がしてならない。
 欲の強さは強い流れを生み出すが、強い流れには滞留物が溜まりやすい。やがて流れが自らの土砂で詰まってしまうのではないかと怯えている。たくさんの小さな欲が、大きな欲の塊になって、本当に大切にすべきものまで押し流しているようで怖い。
 私は二十四時間営業のコンビニや宅配サービスに反対して生きることができるだろうか。

 すべての人の無理のない営みが流れに還っていくような、そういう社会を設計することはできるのだろうか。そして、その社会は流れが止まらないようにできるのか。誰も彼もが心地よい流れの中で生活できるようになって欲しいと日々願っている。私の願いが叶うには、全人類のたった一人さえ例外なく、同じ理想を掲げる必要があるだろう。そんな日は来るのだろうか。来たら来たで、逆にちょっと気持ち悪いかもしれない。