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感じた事や楽しかった事を書いていきます。

雑記 2022.09.16

 ここ最近、野菜と肉を突っ込んで煮たものを食べている。ある日はコンソメで、ある日は味覇で、またある日はトマト缶と一緒に。野菜と肉を大量に煮て、数日に分けて食べる。普段の食事はこれで十分そうだ。野菜も取れるし、一食あたりの値段は牛丼チェーンの牛丼と同じくらいで済む。

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 私はルッキズムから逃れられていない。はやく逃れたいとは思っている。失明でもしなければ無理なのだろうか。あるいは、テッド・チャンの小説よろしく「カリー」を施す必要があるのかもしれない。

 タイプの人や魅力的に感じる人の話をするときに、見た目の特徴を言わないようにしてから数年経ってはいるけれど、ある程度見た目の情報に引っ張られて恋愛をしていると思う。肉の造形にはなんの意味もないはずなのに、私の脳は肉の造形から美を見出し、愛しささえ覚える。ルッキズムから逃れたいというのは口先だけなのだろうか。

 ルッキズムに抗わずに、見たものに美しさを見出して生きるのもまた一つの生き方だとは思う。だがそれは、モノとモノを比べて優劣をつけ続けながら生きることに他ならないと考えている。この世の大半のモノに美しさを感じるときは、なんらかの尺度があって、その尺度で対象物を測って「美しい」とか「美しくない」とか言うのが世の常と私は思っている(そして、その尺度というモノは比較の積み重ね、つまりは経験で出来上がる。テレビだけを見て恋愛をしない男が、アイドルや隣人を見てブスというのがソレの悪い例だろう)。

 人をジャッジする(自分の尺度に当てはめて評価を下す)というその行為が、自分はどこかでジャッジされているだろうという疑念を生み、人の目を気にしながら怯えて生きる原因になると確信している(実際はどうか知らない。ただ私の中でそういうことになっている。それ以上でもそれ以下でもない)。見た目の話でも、見た目以外の話でも、ジャッジしたりされたりは鬱陶しい。

 人は自分の中に存在しない可能性については疑うことができないが、自分の中に存在する可能性については疑うことができる。そういうものだろう。予測すらできなかったことが起こる時、それは真なる外界と触れた時なのだと思う。

 そんなことを考えながら、黒ずんだにんじんを避け、美しい色のにんじんを買った。生き物として生きている間は、きっと必要な能力なのだろうと自分を騙しながら今日も生きている。

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 鶏肉はキッチンバサミで切っている。私は屠殺の工程を知らない。だから私は屠殺を想像しながら肉を切る。想像するのは決まって人間の屠殺で、人間の皮膚の下を思いながらハサミを入れる。肉というのはきっとニワトリも人間も見た目には大差ないのだろう(と勝手に推測している)。血の滴る肉を思い描いて、命に感謝している。殺しから目を背けないように。生きるということは他の生命を殺すことだともっと理解したい。これが鶏肉ではなくて人間の肉だったら、きっともっと感謝するだろう。だから私は人間を屠殺するところを想像して鶏肉を捌く。

 自分だけが無垢な存在だと勘違いしてしまいそうになる。それくらい全てのことが抽象化された生活を送っていると感じる。生きるのに必要なことは全部ぜんぶ、他の人がやってくれている。社会のうねりに生かされている。そのことがすごくありがたいと同時に、ひどく気持ち悪い。私は私の命のために何をしているのだろう?

 たとえ私が肉食動物でも、草食動物に生かされていると思うだろうし、私が草食動物でも、植物に生かされていると思うだろうし、植物だったとしても太陽と大地に生かされていると思うだろう。巨大なシステムの一部として、自分で生きるのではなく生かされている。そういう感覚が強い。これは捉え方の問題で実際がどうとか言う話ではない。でも、そういう巨大なシステムを神だとか上位の存在だと思って生きるのは悪くないかもしれない。いずれにせよ私の認知を遥かに超えている。

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 街頭が灯る瞬間とか、コンビニにおにぎりが並ぶ瞬間とか、そういう瞬間だけを集めたい。そういう瞬間が積み重なった結果が今の自分の生活や、今の自分だと思うから、そういう瞬間を少しでも多く拾い集めて、私を知りたい。

 最近はそう思っている。思ってはいるけれど、私は身の回りの人の親切にすら気が付かないことが多い。かなり鈍感な質らしい。きっとぼーっと生きているせいだと思う。

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 何をしているときが幸せなのかわからなくなることがある。私には「何かを幸せに感じなくてはならない」という思い込みがある。ここ数年でこの思い込み、と言うよりは社会から受けた刷り込み、あるいは洗脳は解けつつあるが、それでもふとした瞬間に「正しい人間のように、正しく幸せを感じなければならない」と思うことがある。

 何をしている瞬間が楽しいだろう?と思い起こしても、全ての瞬間が幸せとも楽しいとも違う。寝ている間は寝ているし、食べている間は食べているし、踊っている間は踊っている。そこに感情が介在する余地は無い。

 本当に?何が言いたいかもよくわからなくなったし、書いていることが本当に自分が感じていることなのかもわからなくなってしまった。時間とともに考えも感覚も変わる。数秒前の自分の文を読んでビョーキだと思った。

 別にビョーキだからって誰からも責められはしないだろうし、善悪を押し付けられる謂れもない。でも、なんだか自罰的な感じになってしまうから、こうやってエクスキューズを並べて自分を安心させたいんだろう。つくづくずるいやつだ。