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感じた事や楽しかった事を書いていきます。

雑記 2022.05.11

 「自己肯定感の低さ」とかよく言うけれど、正しい言い回しではない様に感じつつある。だいたい自己肯定感が低いと自称する人は、自己否定感とでも言うべき謙虚さで、常に腰が必要以上に低い様に感じる(本当に自己肯定感の低さもあるのかもしれないが)。
 自分を守るため、自分自身に期待を抱かないようにしているのかもしれない。でも、それが原因で「自己肯定感の低さ」につながっているように見えて仕方がない。そういったハリボテの処世術は、副作用が積み重なって自分の首を絞めることがあるのだろう。
 苦しみや面倒事は真正面から立ち向かって抜本的に見直すのが一番いいと再認識した。同じようなことを時間を空けて何度も思っている。

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 食べることができる。暖かい家で眠ることができる。仕事がある。そういったことに感謝しながら生きている。自然とそうなってきた。聖書にある「心の貧しい人々」がどういう人なのか少しずつわかってきた気がする。私はどんな解説を読んだとしても、自分の直感で”腹の底からわかってしまう”感覚がないと納得できない。

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 複雑な世界を複雑なまま理解するには脳細胞の数が足りないのだと思う。宇宙を飲み込むほど巨大な脳があったら全部理解できるだろうか? それでも目も耳も肌も鼻も舌も我が身にしかついていないから無理だろう。自分の認識の世界(あるいは体)に閉じ込められていると強く感じる。しかし同時に、全てが自分だ(全ては自分の認識がつくりだしたものだから)と感じることもある。

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 自分にとっての不都合を受け止める覚悟が無いからこの世の真実を求めてしまう。いくつになっても甘ったれたままだ。

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 ハゲのくせに髪の毛がのびっぱなしになっているため、内田裕也みたいになってきた。別にいいけど。

雑記 2022.02.07

 素晴らしい世の中だ。二十四時間コンビニは空いているし、携帯電話を数回タップすれば飯が配達される。家の中を快適な温度に保つことができ、インターネットの向こうに時間を問わず人を感じることだってできる。水を汲みに行く必要もなければ、薪の管理だって不要だ。街にはゴミが散乱していないし、駅に行き交う人をまかなえる分だけの食料はどこでも調達できる。
 現代社会に生きていれば意識もしない当たり前の話だが、考えれば考えるほど、感じれば感じるほど、私の生活は人の(そしてそれは主に他人の)仕事で成り立っている。
 他の人が居なくなったら私の生活は破綻する。交通が止まったら飯はなく、発電が止まれば寒さに震え、下水が止まれば排泄さえままならない状態になる。
 私は文字通り他人に生かされている。私以外の人もまた、他人に生かされている。ライフラインを使う限り、現代人が孤独への愛を語ることなど究極的には不可能だ。
 生きるためには孤独を恐れるべきだろう。それが懸命な態度というものだと、今なら腹の底からわかる気がする。

 私の生活のためにたくさんの人が働いている。そして、私もたくさんの人の生活のために働いている。コロナ禍でどれだけ人とのつながりが希薄になったと言われようと、無意識に(あるいは意識的に)人間の営みに絡め取られて生かされる。それほど、人とのつながりは強力なものだと感じる。
 人が抱く孤独への嫌悪感や恐怖の根本的な原因が生存欲求に依るものだとしたら、それらを解消するためには働くことが最も手っ取り早い。人から施しを受け、人に還元する。社会から与えられて、社会へ与える。この循環の中に居ることで、流れから外れることはない、野垂れ死ぬことはないと錯覚ができる。社会へ与えている間は、循環の中にあって、その循環から外れる時は社会自体が死んだ時だと思いこむ。
 現実にはそうではない。社会というシステムは、地球に資源があってはじめて成り立っている。人と資源と人が起こす循環が全て尽きれば社会はやがて死ぬ。
 孤独を感じる前に自らの生存欲求に耳を傾けることで、なにかがわかるような気がしている。まだ明確にはわかっていない。

 私は(比喩ではなく)与えたり与えられたりして生きている。二十四時間のコンビニも、昼夜動き続ける工場の製品も、馬車馬のようにこき使われている宅配サービスだって使ったことがある。最近、これらは循環ではなく、循環の流れを淀ませる搾取だろうと確信している。これは社会を殺す行動だ。人と人との関わりである社会というものを明瞭に感じ取れてはいないけれど、この過剰な便利さに相乗りすることが、社会を殺しているのだと直感が告げている。私達は流れを生み出すために漕ぎ続けなければならないが、他人が漕いでいる力をそれ以上の力でせき止めてはまるで意味がない。バランスが崩れたら流れが止まる。全員が流れを止めなければ、ひとりひとりが楽な力で漕いだって流れは止まらないはずだ。誰か(あるいは、私)がせき止めているからがむしゃらに漕ぐ人が必要になってしまうのではないか。そうやってせき止めた分を更にがむしゃらになって漕いで首を締めいているような気がしてならない。
 欲の強さは強い流れを生み出すが、強い流れには滞留物が溜まりやすい。やがて流れが自らの土砂で詰まってしまうのではないかと怯えている。たくさんの小さな欲が、大きな欲の塊になって、本当に大切にすべきものまで押し流しているようで怖い。
 私は二十四時間営業のコンビニや宅配サービスに反対して生きることができるだろうか。

 すべての人の無理のない営みが流れに還っていくような、そういう社会を設計することはできるのだろうか。そして、その社会は流れが止まらないようにできるのか。誰も彼もが心地よい流れの中で生活できるようになって欲しいと日々願っている。私の願いが叶うには、全人類のたった一人さえ例外なく、同じ理想を掲げる必要があるだろう。そんな日は来るのだろうか。来たら来たで、逆にちょっと気持ち悪いかもしれない。

雑記 2021.12.15

 恋人と半同棲の様な状態になって一年が過ぎた。実際に一緒に暮らし始めてからは十ヶ月。当たり前のように他人が自分の生活に入ってきていることに驚く。既に一人暮らしのときの自分の暮らし方を忘れてしまっているような気がする。まあ、到底生活や暮らしと呼べるようなシロモノではなかったけれど。

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 ゲームにドハマりして睡眠不足。自分の悪感情に振り回される時間が増えた。健康が一番だと感じる。思考をクリアに保つには寝ることが一番。たくさん寝ていても思考がクリアでないときは考え事などしないほうが良い。
 アンミカも「夜はアカン」つってる。

 当たり前の事が本当に大切だと思う。当たり前の事しか言えてないけれど、でも、この世に起こることはほとんどが当たり前だ。当たり前というと語弊があるかもしれないけれど、当たり前と表現するのがしっくりくる。
 モーニング娘。'14だって「寝不足は寝るしか無い」と言っている。当たり前だ。DA PUMPだって「どっちかの夜は昼間」と歌うし、椎名林檎だって「GOOD MORNING GOOD NIGHT 今日も裏表隔たっている 地球の正反対同士 HIDE & SEEK」と表現している。
 私にとって当たり前というのは、当たり前でひっくり返せない道理の様なものだ。

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 自炊が続いている。ある日はCook Doで、ある日は丸美屋で、ある日は適当な炒めもの、またある日は煮付け、余裕があったら手の混んだ料理をしている。
 付け合せは考えるのが面倒なので、塩コショウとお酢をレンチンしたもやしにかけただけの酢もやしを毎回食べている。味噌汁はだいたい安い葉物野菜か豆腐かきのこを突っ込んでいる。季節の野菜を入れるとだいたい美味しい。

 無理をしないことが一番だけれど、働きながらだと少し無理をしないと自炊ができない。
 宇多田ヒカルも「無理はしない主義だけど君とならしてみても良いよ」といっているけれど、この場合は違うだろうな。でも一人だと自炊をする気にはならない。一日の内でなにかを創作するというのはそれだけで多大な労力を必要とするのだ。

 自分の生活に他人がいると少し自分を奪われる代わりに、生活にリズムができる。

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 コロナ禍で人との関わりが減ったな~と感じる一方、親しく想う友人たちとは元々年に2~3回ほどしか会っていない。趣味のダンスの関わりが減ったくらいだろうか。
 来たるべき孤独に向けて準備をしなければならないという思いを抱きつつも、人と暮らしてみたり、インターネットで人と関わったりしてなんとか問題の先送りをしている。
 私の人生の完成は孤独との和解で達成される様な気がしてならない。完成したから何だという話ではある。

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YUKI の歌詞は美しい。特に「わたしの願い事」がお気に入り。

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 わたしは形而上の話や、「人類がテレパシーを使いこなしたらどうなる?」というような現状ではありえない”もしも”の話にばかり興味が行く。
 だけれど、そういう話題が好きな人はそう多くはないらしい。ということに最近会社の人と会話して気がついた。みんな好きなんだと思っていた。

雑記 2021.01.05

最近感じたこと

 

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自己肯定感とか言ってないで、目の前の苦痛と正面から向き合ったほうが良い。最終的に自己肯定感も上がる。第一、自己肯定感の低さを免罪符にしている者が成功体験を受け取ることはない。自己のうちに責任やリスクを負ってこそ、成功を我が物として受け取ることができるからだ。

その自己肯定感の低さから抜け出すのに必要なのは、自分の不完全さを認めながら何かに挑戦する事なのではないだろうか。

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自分の大脳新皮質の外側を知らない。
私は目が捉えた光しか見ることができない。
これはとても悲しいことではないだろうか。

でも、当たり前のことだ。

私の体が宇宙へ行ったとしても、私が脳の外側に出ることはない。
認知という檻に閉じ込められている。

そういった意味で人類は全て孤独ということができるのではないだろうか。
脳を通さない知覚がなければ孤独を克服することはできないだろう。

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完全な何かになりたい。

西洋哲学で追い求められ続けているような
永遠不変のなにかになってみたい。

しかし、そのようなものは無い。

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幸せになるために生きていない。
苦しみと向き合うために生きている。

孤独を癒やすために恋愛をしている。
死を回避するために仕事をして飯を食う。

俗に言う幸せとかいうものは、
孤独と死が有るからこそ生み出された幻想だと思う。

私のすべての原動力は恐怖によるものなのだろうか。
おそらくそうだ。だが、それは少し悲しい気がする。
でも、それは当たり前の事のような気もする。

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孤独と死はどちらの方がより根源的なのだろうか?
と考えたが、死がなければ孤独を恐れる必要が無いので答えは自明である。

私は暇など怖くない。
(ほんとうかな)

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恋人が正月太りしている。
みるみるうちに太るので面白い。

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人類全員がより苦しみを少なくして生きるためには、
人類全員が他者に対する想像力を豊かにするだけで良い。

それが難しいという事は体感として知っているが、
それが難しいというのは、なんだか愚かな気がしてしまう。

別々のクオリアを持ち、別々の入力を行い、
別々の経験に基づいた別々の論理で想像するから難しいのだろうか。

だとしたら別に愚かなことではない気がしてきた。
やはり他人と理解し合えるなどという妄想は捨てるべきだ。

星野源だって「僕らずっと独りだと 諦め進もう」と言っている。

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ゲームにハマりすぎて 25 万円かけて PC を組んだ。
アホかもしれない。

雑記 2020.09.14

超雑記

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誰でもいいから出会い系アプリで知り合うのだ。特定の誰かじゃなきゃだめなら出会い系アプリなんかは使わずに、最初から特定の誰かにアプローチすればいい。「私は山田さんとじゃないと付き合えないの」なんて人間、出会い系アプリにはいないはずだ。特定の誰かを探すために出会系アプリを使うのであれば、やはりそれは誰でもいいのと一緒だと思う。

という話を恋人にしたらアホを見る顔をされた。
別に付き合ってからその後、誰でもいいとは言っていない。

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「人の知性を図れると思うな」と自分に言い聞かせるようにしている。自分が図れる他人の知性は自分の知性の限界より手前までだ。自分と同等以上の知性は理解できない。図に乗るなと自分に言い聞かせている。

むしろ理解できないものの中にこそなにか本質が隠れているのではないだろうか。

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J-Pop の愛だの恋だのは、おそらくほとんどがコミュニケーション不全を美化している。失敗は美化すべきではないし、必要以上に醜くすべきでもない。

(恋愛における失敗が何かはもう一度考えてみる必要がありそうだ)

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ツイートの内容は主に「自分の欲望が如何にして満たされた(満たされなかった)か」という内容に集約されている気がする。簡単で美味しいレシピのツイートも「美味しい思いをしたいという欲望をこのような方法で満たしました」という内容ではないだろうか。政権に対する意見だって「私の欲望はこの政権では満たすことができていない」という内容である。

果たして意味のある発信は存在するのだろうか。私が他人の欲望に興味を持てばいいだけだろうか。

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J-Pop の愛だの恋だのの話だが、最近は歌詞に共感することができない。人の大切な思い出から出てきた言葉に自分の感情を塗りたくって悦に浸るのは失礼じゃないかと思い始めた。そうやって他人を消費する生き方で何が生まれるのだろう。

共感なんて不可能なことをしようとするのはやめたほうが賢いと思う。「その辛さわかるよ」と言われても大抵の人は「うるせえ」と思うだけではないだろうか。他人の痛みに共感できる自分を愛しているのだろうか。

それとは別に、「その辛さわかるよ」と言われたときの心配する気持ちに救われることもあるので難しい。

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どうして人と付き合っているの?と聞かれた時に「寂しいから付き合っている」と答えると、これまたアホを見るような哀れんだような顔をされる。私は、人格向上やキャリアの向上を他人に頼るほど落ちぶれてはいないと思っているが、そんな角が立つようなことは言わない。と思っていたが言ってしまう。なぜなら声がでかいからだ。

そもそも人格を向上するにあたって上ってどっちだよと言う話だ。

 

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最近、仕事をする直前に不機嫌になる微妙な心の動きに気がついた。「なぜ人から急かされなければならないんだ?」という気持ち。会社の企業理念のために働くという習慣がないのでそういう気持ちになるのだろう。そのような気持ちにならないために大切なことは能動的に動くことだ。反省すべきは自分の受動的に動く性質なのだろう。

とはいえ自分の意志を持って行動するほどの元気もない。くそったれだぜ。

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モンハンのプレー時間が 2.5 ヶ月ほどで 235 時間になった。笑える。2.5 ヶ月のうち 10 日分ほどゲームをしているのだ。やりすぎ。

ゲームの中ではどんなに生き物を殺しても罪に問われることはない。なぜなら、人類を脅かす存在を倒す正義だからだ。どうでもいいけど、MHW のストーリーは劣化版ナウシカだった。特に瘴気の谷と陸珊瑚の設定がナウシカそのものだったと思う。逆にはなってるけど。

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超雑記、以上。

 

2020.06.11 蕁麻疹

すんげえ痒い。

 

 事のあらましはこうだ。2020年05月30日、副鼻腔の治療のために耳鼻科へかかり5時間待たされたのち、薬を処方された。その1週間後の2020年06月06日、薬を弱めましょうとアモキシシリンカプセル錠からクラリス錠への切り替えを行う処方をもらった。実際に薬が切り替わったのは7日の晩で、翌朝の8日の7時頃にほんの少しの蕁麻疹が出た。前日に食べた寿司やししゃもが悪さをしたのか?と一日様子をみたところ症状が悪化。翌9日に耳鼻科へかかってから皮膚科へかかり、点滴と血液検査を受けた。現在11日、症状の容態は平行線を辿り(医師によると快方には一応向かっていると言うが)、痒みは増すばかりである。すんげえ痒い。

 9日の血液検査の結果、白血球数が 2790 /uL と基準値を下回っていた。医師によると「おそらく薬疹でしょうね」との事だった。現在では白血球数が 8900 /uL まで回復しており、発疹の赤みも取れつつある(が異様に痒い)。 副鼻腔を治そうと真摯に病気に向き合った結果、わたしは3日もの間、剣山で刺される様な痒みに耐えるハメになった。これもまた一つ人生の醍醐味というやつである。私にとって生きる事とは、苦しい事とそれよりは苦しく無い事(大抵の人はそれに喜びや幸せという名前を付けている)に一喜一憂する事なのである(私が愚かである限りは)。

 かくして私は全身に蕁麻疹が広がってから3日間もの間、苦しみをやり過ごす方法を考える事だけに集中して過ごしていた。水を浴びたりエアコンの温度を18度に設定したり、痒いと連呼してみたり、だ。最も効果のある痒みのやり過ごし方は睡眠を取る事なのであるが、睡眠を取るのがまあ難しい。眠りにつこうと横になると意識がすべて痒みにフォーカスされてしまうのである。ああ、痒い。シロアリが私に巣を作っている。運よく眠れてもまた痒みで起こされる。シロアリの次は硫酸を浴びて起きるのである。なんと素晴らしい目覚めだろう!

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 苦しみから逃がれられるという幻想を抱いている内は苦しみを克服する事はない。苦しみに対抗する唯一の手段は苦しみに真摯に向き合う事である。これはどの様な種類の苦しみに対しても有効だ。今回は痒みと向き合っている(できれば向き合わずにいたいが、理不尽な事が起きるのが人生というものだ)。痒さと向き合ったところで、痒さは過ぎ去ったりはしない。ただ苦しいだけである。でもそれが現状であると諦める事である。そもそも、人生には苦しい事とそれよりは苦しく無い事(大抵の人はそれに喜びや幸せという名前を付けている)しかない。根本的にはすべて苦しいから嬉しいのであり、嬉しいから苦しいのである。本当だ。嘘じゃ無い。全て程度の問題だ。

 起きている間ずっと痒みに犯されていると気がつく事がいくつかある。生きるということはいつ理不尽が襲ってきてもおかしく無いという事。襲ってきた理不尽に立ち向かう方法はただ耐えるしかないという事。起こった理不尽に腹を立てても誰も機嫌をとってくれないという事。諦めるしか無いという事。まあ、結局なにをしても、痒い。

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 私はこれまでの人生で喜びを最大化させて生きてきたが、それは苦しみを大きくするだけだった。この世にはそういう物理法則がある。多分。高いところの物が低いところへ落ちる様に、電圧が電流を生む様に、嬉しいと苦しいし、苦しいと嬉しいのである。私の気持ちは水が流れるのとそう大差なく、ただその流れに滝だとか瀞だとか名前を付けているだけに過ぎない。具体的には喜びとか苦しみとかである。マッサージを受けて気持ちが良いのも、殴られて痛いのも根本的には同じだ。ただ程度の問題である。そして、それに滝と名付けるのか瀞と名付けるのかという問題である。少なくとも私にとっては。そうやって訳のわからない理屈をつけていないといてもたってもいられずに心に怒りが生まれるので訳のわからない理屈をつけて妄想している。そうやって考え事をしていないと気が狂いそうなほど、まあ、結局は、痒い。

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 痒みにフォーカスするのは私の意識が痒みを求めているからだろうか?痒みという物が実際にあるからだろうか?感覚器官が過敏に反応しているからだろうか?脳の神経細胞が違うシナプスを繋いでしまっているためだろうか?どうせこの世で起こっている事の全ては私の脳内で完結する事なのだからその辺は上手くやってほしいものだ。たとえ私が宇宙の端にたどり着いたって、私は大脳新皮質より外には出ていけない。なんともバカらしい話だ。だというのに、脳の外側で起きている皮膚疾患で苦しむのはどういう了見なのだろう。いけない。この世の成り立ちに怒ってもまるで意味がない。でもそうでもしないと、まあ、結局は、痒い。ところで、脳を介さずにこの世を理解することは人間に可能なのだろうか?

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 ヒステリックな思考に支配されているこの日々が早く終わります様に。うげ。

2020.02.20 便秘

 

便秘は恐ろしい。

 

食べた量と同じ量が出ない事がこんなにも恐ろしい事だとは想像もしていなかった。私は今、人間の機能の一つが奪われた状態にある。これは自己の損失と言っても過言ではない。失恋した時に味わう"愛するという機能の欠損感"によく似ている。爪を切る時の寂しさや、ひげを剃るときの虚しさにも僅かながら似ている。便秘とは自己の損失である。

 

損失するだけならまだいい。排泄という機能を失う寂しさや遣る瀬無さだけであればまだ耐える事ができる。私は失恋の痛みにも涙を流しながら耐えることができた。しかし、排泄がうまく行えないと体には便がたまることになる。失う辛さも辛いが、溜まり続けて行き詰まる事も同じように辛い。元彼を失った痛みと便秘の不快感を天秤にかけていいものか甚だ疑問ではあるが、人生でトップクラスにキツい。

 

満腹時以外の腹部膨満感は私の身体の中に便が溜まっていることをありありと私に伝えてくる。人間は糞袋であるという真実を伝えてくる。私は便秘によって不浄随観の悟りを開くのであった。人体は美しくなどない。

 

人は死ぬ時、段々と機能が失われていく。聞こえなくなって、歩けなくなって、排泄できなくなって、食べれなくなって、見えなくなって、そうして死ぬ。人の死とは人間としての機能が失われた時に完成する。便秘の私は生きている人間より少しだけ死体に近い。これが死の一部であるならなんと恐ろしいのか。しかし、機能の損失の寄せ集めが死ならばそこまでおそるるに足らないとも同時に思う。私の中には相反する感覚が矛盾なく同居する。

 

うんちしたい。。